感情ユビキタス。

「昔はインターネットで大量の情報がやり取りされていたのが、今では感情がやり取りされるようになったんだね。」と何かの専門家の方が言っていました。
確かにもう個人個人が情報、てか感情を発信することは当たり前になりましたよね。
思いがあればブログに綴り、何かに気づけばつぶやき、訴えがあれば掲示板で闘ってみたり。
そのおかげで人と知り合えたり、いままでやるのが難しかったことができたり、あたらしいビジネスが生まれたりといろいろ楽しいものことが生まれているんだなーと。
大震災の時に救援物資を集めるのに役立ったり、どこかの国ではフェイスブックを通してデモが起きたり、個人が発信する情報がどれだけの影響力を持つか、ということを実感させられることも最近多いです。
いままでは個人の力が弱かったのではなく、インフラ?が整ってなかっただけだったんですね。


ただ、ここまで何に対しても個人の感情や評価がくっついて回るようになると、正直辛くね?と思ってしまうのですが。


インターネットで情報が何でも手に入るようになったとき、よく「情報を取捨選択しましょう」とよく言われていたと思います。(自分に)役に立つこともあれば立たないものもあるし、嘘や確証のない噂も沢山ある。一人が消化できる情報なんてひとにぎりなんだからちゃんと選びなさい、と。


ただ個人の思い・意見が情報の中心なると、どの情報にも嘘は無いわけです。思ってることや価値観は人それぞれですから。で、否定しようが肯定しようが人の感情を受けてしまえば必ずそれに対応した自分の感情が生まれる。人の感情を見れば見るだけ沢山の感情を取り込んだ自分の思い、感情は膨れ上がっていってしまう。この処理のしきれなさっていったらない。
要は精神的お腹いっぱいというか。


ツイッターとかニコ動とかって、人と空間やコンテンツを共感出来てる感が楽しいんだと思うんですけど、常に誰かの意見があるとか、常に多数派が誰か、とかがわかるのってちょっと辛いなあ、と思ってしまうのです。
で、その感情がテキストなりオブジェクトとして残るわけです。いくら過去のものでも受け手からすればどれもリアルタイムで発信されている意見として受け止めてしまうし。
受け止めなきゃいけない感情は基本的には増える一方なんですよね。

そうそう、それで最近は時間も共有できるじゃないですか。リアルタイムでも繋がれるというか。それも感情のコントロールを難しくさせる原因になってる気もします。


いや、私もそういったシステムやらコンテンツにはお世話になってるし楽しんでますからね?
ただうまい付き合い方しないとしんどいですよねー、っていうだけの話なんです。

そういう膨大な感情のネットワークとの付き合い方?をうまくやる方法が「慣れ」なのか「切り分け」なのかわかりませんが、結構ネットを通じた感情の持って行き方、みたいなものに戸惑いを感じてる人っているんじゃないかな、と思うのです。
…いないか?


要は私のコミュニケーション能力が無いっていうだけの話のような気もしないでもないですがw
ではでは。


〜おまけ〜
デスクワーク肩でがこった方はこちら。
これは効く。
http://www.youtube.com/watch?v=nt5ERNh0Qko